16世紀~17世紀初めにかけて、我が国では戦国大名の台頭と新しい都市作りのため、各地でたくさんの城郭の修築が行なわれましたが、 案外これらの建築工事に関する史料は少ないようですが、江戸城などいくつかの城の普請の経緯が、使用された道具、資材、数量などとともに現存しており、城壁築造の様子を知ることができます。この時代の石積みに大きな功績を残している石工に穴太衆の集団が著名です。元々、穴太衆は、寺院の五輪塔や石臼を生産していたそうですが、安土、桃山時代に織田信長の要請によって次第に城郭の築造に専念するようになり、 江戸時代には全国各地の大名に専門集団として召し抱えられています。 城壁の築造のために集積された石材の中から、全体のバランスを考えながら、自由に積み上げていく穴太式築造技術で作られた城壁が、現存する多くの城郭に見られます。この積み方は、野面積みと言われ、安定感があり、荒々しく男性的であることで良く知られています。この自由な築造技法に対し、この時代になると、使用する石材がある程度規格化され、石材の調達も計画的に行なわれるようになってきてもいたようです。そして、反りを持ったあの美しい城壁の曲線が、規格化された手法により完成されていったようですが、全体としては、建設の数は多くありません(法式と呼ばれ、加藤清正が完成させたという説もある)。
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時折、地方の城郭を修復したり、積み直したりする工事が行なわれることがあり、著者もその一現場を見学する機会がありました。現在では、クレーン等の大型の重機を使用して簡単に巨石の運搬や据付を行なってはいますが、場所を考えながら石を選定し、経験をもとに自然石を据え、昔ながらの野面積みでの復元でした(写真-1)。また、写真-2は、以前に著者が、ペルーのマチュピチュ遺跡を訪れたときの石積み擁壁です。写真の石積みは粗雑に積んだものですが、神殿付近の石積みは、精確に面取りされ、石と石が隙間なく積まれているのをみると、そのときの人々の気持ちが伝わってくるようにも感じられます(写真ー3)。石の加工技術には世界中で共通するところも多いが、インカ文明の石の加工技術には不明な点も多いそうです。つい最近まで、莫大な労力と費用を要し、また、特権階級の独占技術であった擁壁技術も、今では、コンクリートの発見や大型機械の開発により、身近で一般的な技術として盛んに利用され、大規模な土地造成での重要な一分野となっています。技術の発達とは、特殊技術の一般化なのかもしれませんが、その発達の中で素材や工法をかえ、当初のものとは全く異なった形態を呈することも少なくありません。コンクリートの擁壁よりも石積み擁壁に何か自然との調和や親しみを感じるのは単に素材のせいなのか判らないが、宅地の擁壁は生活空間の一部であり、機能だけを追求する技術の発展には失われていくものがあることも事実のように思われます。
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